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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第七章 蘭学に転向す

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一 藩学への不満

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 大隈の就学した頃は、数的にいって弘道館の全盛時代で、内生寮の寄宿舎には六百人を超えた学生が収容され、それが南寮と北寮に分れていた。大隈は南寮に属したが、才気煥発、学才弁舌ともに儕輩に抽んで、性格俊爽の優等生なので、南北両寮の全学生、年長者からも敬愛せられて、実に弘道館の華として翹望せられた。それでは彼は学科に満足し、課業に精励しそうなものだが、その反対で、重箱詰めにしたような朱子学教育の窮屈さに堪えず、何か自由な、新鮮な、潑剌たる興味を呼び覚すものを求めてやまず、その矢先に結成せられた義祭同盟だったので、進んでこれに参加した。彼はこれを、自分自身で生涯の進路を定めた最初の歩程だったと言っている。

 学外の空気の中に自ら動く活発の活機に接触して顧みると、いよいよ館内は形式に堕して、沈滞して感ぜられるので、生来長広舌の彼は、機あるごとに学制改革の意見を述べてやまず、これには自分の属する南寮よりも、却って北寮の学生の方に熱心な共鳴者が多いので、暇さえあれば出掛けて行って、気焔をあげて容易に帰らない。そこで大隈を返せ、返さぬで、南北の両寮に反目が生じ、遂に爆発して大乱闘になった。初夜は北寮が南寮に攻撃をかけ、翌夜は南寮が北寮に復讐をし返す準備に、昼間からおさおさ怠りなかった。なにしろ火鉢を投げ合い、行燈を砕き、梯子を壊し、怪我人まで出るに至ったので、翌夜は乱闘の起る寸前に、学監の知るところとなり、調査の結果、攻勢をかけた北寮生七十二名は自宅謹慎を命ぜられ、南寮生は防御したのだから罪が軽く三日間の禁足を受けた。数日の後、謹慎者も復帰が許されたが、しかし数名の主謀者は退学処分となり、大隈はこの騒擾の元兇として、南寮生ながら、退学を命ぜられた人員の中に加えられた。

 やがて、退学者も皆宥免せられて帰校できることになったが、しかし大隈は自ら考えるところがあって、二度と弘道館には戻らなかった。この先たとえ何年弘道館で程朱の学を学んでも、得るところのないのを見越し、この上は新知識吸収のため、断然蘭学を修めたいと希望したのである。

 それは時勢の刺戟によること明らかで、大隈が数え十六歳、初めて弘道館内生寮に入った嘉永六年は、六月浦賀にペリーの率いるアメリヵ艦隊が入ってきて、一挙に泰平の惰眠を驚かし、翌七月プチャーチンの乗るロシア軍艦は、佐賀とは目と鼻の先の長崎に入港して周辺の諸藩を驚かした。翌年(嘉永七年、大隈数え十七歳)は三月にアメリカと開港条約を結び、同年のうちにイギリス・ロシアもこれに倣った。翌安政二年には、ロシア船ディアナ号が下田港で地震津浪のため座礁したのは、イギリス・フランスの軍艦からの捜索追及を警戒して入港したためで、前年始まったクリミア戦争が微かながら日本にまで波及して来たのである。この時には、そこまでは明確に認識していなかったとしても、我が近海でヨーロッパ諸国同志の相争う形勢は何となく感得せられ、一度世界の一角に戦争が始まれば、我が国も大なり小なりその影響から免れ得ないことが、きわめて薄々ながら認識に入りかけていた。日本は大正三年に始まった第一次ヨーロッパ大戦に参加して、世界戦争に巻き込まれる経験をしたが、その危険、その予兆は既にその六十年前、ロシア船ディアナ号遭難の時に微小とはいえ現れていたのだ。そしてこの翌年数え十九歳にして蘭学習得を志望し、蘭学寮に入った大隈重信が、七十六歳の大正三年、総理大臣として世界大戦の参加を決意し、宣戦の詔勅を奉じて副署することになるのは、如是因如是果と言うべきか否か。

二 鍋島家蘭学の歴史

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 日本における蘭学の歴史は、後年大隈重信の撰述した『開国五十年史』上巻の「欧洲学術伝来史」(大槻如電稿)、或いは大隈の終生の盟友なる福沢の伝記第一巻(石川幹明『福沢諭吉伝』)の「日本洋学の歴史」に秩序立てて概説してあるから、ここに繰り返さない。

 鍋島藩は領土たる肥前の中に、幕府の直轄地が介在して奉行所が置かれているにしても、長崎港を抱き、その警備は筑前の黒田家と隔年交代で鍋島家が当ることになっているから、オランダ人との交渉は、日本国中のどの藩よりも緊密で歴史が長く、殊に大隈家は砲術の家柄であってみれば、これまた家業としても蘭学に無関心なる能わなかった伝統がある。

 初め鍋島藩では、翻訳係という部署を設けて、それによって泰西新知識を得ようとし、その扱う書が多く鉄砲に関したので火術方と称した。しかし嘉永六年、ペリーやプチャーチンの米・露の軍艦が、相次いで下田および長崎に来航するに及び、いわゆる焦頭爛額の急に迫られて、その十一月、鍋島藩では医学寮という医者の養成所の中に蘭学寮を置いた。蓋しシーボルトの来航以来、蘭学は医学と最も連絡の深い伝統が作られていたのである。しかし時勢の必至的要求で、国防上の砲術・築城・兵制の攻究に志のある者が主として志願して、この学寮に入った。蘭学の学舎を藩で設けたという例は、全国に多くはない。が、同じ肥前国内で目と鼻の先に長崎を控える鍋島家としては、寧ろ遅きに失する。

 青木昆陽がオランダ語習得を始めたのは遠く元文―延享(一七三六―四八)の昔であり、こうして蘭学習得の禁が解けると、藩として逸速くこれに注目したのは、後に福沢諭吉の出た豊前中津の藩で、藩医前野良沢を長崎に遣わし(明和七年・一七七〇)、彼がその攻究にあまりにも熱心なるあまり、藩主はこれを蘭学の化け物と呼んで遂に蘭化が雅号となり、一般は蘭化先生と敬称した。『解体新書』という蘭学開発に画期的な書物の翻訳(杉田玄白らと共訳)完成は安永三年(一七七四)である。また通弁人の中野柳圃(志筑忠雄)は、初めてオランダ語に六格九品(詞)のあるに気付いて、粗略ながら文法書を著し、文化元年(一八〇四)には世に現れた。

 爾来オランダ語は長足の進歩をして、殊に医師ながら百科全書的知識の所有者シーボルトの渡来(文政六年・一八二三)は、医学を中心として蘭学の広汎なる発展を促し、また長崎町奉行の高島秋帆は、ナポレオン戦争で一変したヨーロッパの兵法を攻究して、いささかその実質を整え、天下の進歩的各藩は靡然として、その教えを受けた。しかしかく一時に隆盛に赴いた反動で、シーボルトも秋帆も共に、追放或いは禁獄の罰を受け、渡辺崋山や高野長英の如き先覚の士が災厄を蒙る、いわゆる蛮社の獄が起る因をなした。

 しかしながら駸々たる蘭学の進歩、時勢の急転に伴って、これしきの障碍に遅滞するところなく、天保九年(一八三八)には備中足守の藩医緒方洪庵は大坂瓦町に蘭学塾適々斎塾(適塾)を開いたが、各藩の英才が争うて笈をその門に下ろし、明治維新の鴻業は兵事・文化共に、一半は、この適々斎塾から醞醸したと言っても過当ではない。それを思えば、鍋島家の蘭学寮が嘉永六年(一八五三)に漸く設置せられたのは、長崎を抱えた藩としては、その遅鈍、無神経、寧ろ軽蔑をさえ覚える。それから五年後の安政五年には、中津出の一書生福沢諭吉でさえ、江戸鉄砲洲の中津長屋に蘭学塾を開いて、学風逐年振い、遂に明治学問新興の魁首をなすに至る。

 しかし鍋島家も、さすがに名君の称ある直正(のちの閑叟)の世継ぎになってから(文政十三年・一八三〇)は、燈台下闇しの暗愚な大名でなく、泰西日進の文明に意を注ぎ、逸速く牛痘を輸入し、また薩摩の島津家とともにヨーロッパの技術を入れて反射炉を築いて大砲を造り、小蒸汽船を試造し、電気鍍金の術を利用することなどには、先鞭をつけている。ただその学問の攻究所として蘭学寮を設立した時期は、この封土の位置、そしてこの名君を戴く藩としては、思いの外に遅いというのである。ただし、蘭学寮は大庭雪斎、福地道林、山村良哲などの良教師の指導で、出発は遅かったとしても、進歩繁栄することは早かった。

 しかし、弘道館の復校組に同調せず、独り大隈が別行動をとり、蘭学学習に入ったのは、多くの非難、寧ろ憎悪を呼んだ。自分がこの騒擾の中心であるのに、それを庇って乱闘したいわば犠牲者と別れるとは、義理に欠けた背恩の行動であると指弾せられたのである。学外の親戚、知己、町内人などは、蘭学と言えば、蛮社の獄などが社会心理に与えた恐怖衝撃で、例えば切支丹などと同じ嫌悪、忌諱の念を持つ。或いは後の世の共産党に対する一般感情にも譬えられよう。そこで彼に注意し、戒告し、訓諭する者は多かった。大隈は情において忍びぬところがあっても断々乎としてこれを退け、初志を貫徹して、蘭学寮に入る決心を翻さなかった。それには母が、大まかな寛濶な性質の女性で、息子の行動に少しの制肘も干渉も加えなかったことが、大きな心の支えになった。

三 別行動に非難集中

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 母以外の周囲殆どの関係者の留めるのも振り切って入った蘭学寮だが、数え十九歳の大隈なのだから、まだはっきりした見識も志望もあってのことではない。といってまるまる無鉄砲で行動する年でもなく、恐らく冒険と思慮の中間の気持であったろう。

 蘭学寮は佐賀城下から北に一里ばかり離れた郊外で、中折という所に建っていた洋式操練所の中にあった。課業はすべて午前中に行い、先ず初等の文典『ガランマチカ』を棒暗記し、それが済むと後編の『セエンタキス』に移る。これは当時の蘭学修得者が皆踏む常径で、福沢諭吉の『福翁自伝』も、同じことを語っている。『ガランマチカ』は、公共福利振興協会刊のGrammatica of Nederduitsche Spraakkunstで、『セエンタキス』は同協会刊のSyntaxis ofWoordvoeging der Nederduitsche Taalのことで、前者は箕作阮甫が天保十三年九月『和蘭文典前編』として、後者は『和蘭文典後編成句論』として木版で覆刻しているから、恐らくそれを用いたであろう。約一年でそれが済むと初歩の物理書の講読に掛かり、別に参考書として、寮で直接自ら教える大庭雪斎の『訳和蘭文語』を併習する。午後は自由勉強で、他に月に二回の射的演習が課せられた。

 オランダ語の習得は、弘道館の学問に麻痺し、鈍化した大隈の若い神経を、六月の薫風のように新鮮に撫でた。よほど特殊のものでないと、ヨーロッパ語の文法修辞を覚え抜く忍耐を欠き、殊に既に朱子学の高度の理論を叩き込まれた後では、「汝は木の上の小鳥を見るか」というような幼童用の教科書は、阿呆くさくて、真面目に稽古する気がしない。しかるに大隈にはそれが性に合って、『大隈侯座談日記』(「大隈重信叢書」第五巻)に次のような思い出を述べている。

十八になると洋学を始めたんだろう。一八六〇年頃に読んだ蘭書にハンデンブルグと云って多分ドイツ人かと思う人の書いたナチュール、キュンデというものがあった。その原則を心得たのが政治論にも基礎となって後年中々役に立ったこともある。

(一三一頁)

漢籍は群書を渉猟したろうに、特に感銘を受けた書物の名を挙げておらぬ。しかるにオランダ書は最初の一冊からして、このような影響を蒙り、後年の政界馳駆の掛け引きにまで役立ったというのは、尋常一様の印象であろうか。他の場合にまたこう言っている。

大庭雪斎といつて佐賀の蘭学寮の教授で、民間格知問答の訳著をした人、我輩の先生であつた。大酒飲みで、酒を飲むと傍若無人、色々面白い話をして聞かす。我輩は西洋の話が聞きたさに、能く尋ねて往つて酒の相手をして聞いたものだが仲々面白い。……仲町のお蘭さんが如何したとか、何とかのほつきやあ(法螺貝)が斯様したとか、それが皆通俗な譬喩なのさ。呍?、仲町のお蘭さんは真空の事で、仲に何も居らんといふ意味なんだよ。民間格知問答は原名をフヲルクス、ナショナル、クンデといふので、ヘンテーとヤンテーといふ二人の仮設人物があつて、問答体に物理を説明したものだ。雪斎の説明は例を引く事が誠に巧妙で、例せば大小は物の比較だといふ事の説明にもグレートの亜歴山がスモールだといふ風な事を言ふ。実に面白くて理解が早い。大入道であつたが、医者の子な者だから、初中終八丈の着物を着て居たよ。併しひどく汚れて垢光りにピカピカして居たよ。 (『早稲田清話』 四六一―四六二頁)

藩主の鍋島直正は、名君で学問に熱心だから、時々、参看に来る。『大隈侯座談日記』に、

月に二遍位巡ってこられる。そうするとオランダの歴史だ、これは面白そうなものだ、時々読んで講義をしようと云われた。そうすると、そこにオランダの憲法の大要を説いたものがある。オランダの根本の憲法である。これが面白い、それでこれをいい加減にやったら、大きに気に入られて、今一度その先を訳して見うと云うことだった。エフィシェンシイ、節制の事が論じてあったと思う。閑叟にあの後はどうしたかと云って時々取つかまる。一度はクリミア戦争の事を書いたものだったと思う。本を持って来ていても読めぬ、困るからこの次までどうぞご猶予を願いたいと逃げたことがある。 (二三〇―二三一頁)

と、大隈は自分ではこう語っているが、一年下級だった久米邦武の談を聞くと、これは文久元年の四月五日のことで、和蘭憲法講義の中から摂政の条を講じたところ、鍋島直正は帰城後、侍臣の徳永伝之助に「今日、蘭学寮で大隈八太郎(重信)がした講義は特によかった。」と言って賞めたという。これで見ると右の「座談」の筆記者が「エフィシェンシイ、節制」と記したのは意味をなさず、英語だったとすれば、regencyすなわち「摂政」の誤りでなくてはならない。

 そして大隈がこの頃オランダの憲法に接して面白かったと言っているのは、まことに意味深い。不幸にして、大隈が藩主に進講した歴史の本は、書名が書いてないから今日不明に属し、その一部にオランダ憲法の大要が説いてあったといっても内容は分らない。よし、書名が明記してあっても、今日入手して参照することは、恐らく容易ではなかろう。しかし当時、オランダ原書の輸入は未だ少く、そして語学の段階が幼稚だから、そう高度な書物が入ってくる筈もなく、たとえ入ってきても大隈などに読みこなせる筈がない。

 ただしここに、慶応二年に出た福沢諭吉の有名な『西洋事情』(初編)がある。その巻の二の一つは「荷蘭国」となっていて、史記と政治と海陸軍の三部に分れている。当時、新入手の初歩のオランダ解説書から大意を取ったと思われ、そして大隈が藩主に講義したオランダ史書というのも、この程度のものだったと推察して誤るまい。福沢の記述は、史記においてナポレオン戦争以前のオランダ共和国時代の自由と繁栄を謳歌し、その政治においては、こういう説明をしている。

国王は罪ありと雖ども其身に刑罰を加ふ可らず〔明治憲法の第一条、天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラスに当る〕。国内治乱の責に任ずるものは事務執政なり〔大臣の責任政治〕。文武士官を命じ、法を施行し、師を起し、和を議し、海外所領の地を支配するの権柄は、国王の手に在り〔国事は天皇の裁可を要する〕。議事官は上下二局に分れ〔議会には上院と下院とあり〕、毎年会同して国事を議す。上局の官員〔議員〕四十乃至六十人、国王より命ずるものにて〔勅選〕、終身職に在り。……年四十歳に満たざる者は用ゆ可らず。下局の官員〔衆議院議員〕五十五人、諸州の人民より撰挙するものなり。

(『福沢諭吉全集』第一巻 三四八頁)

恐らく大隈は初め、この程度のオランダ史によって、おぼろ気ながら立憲君主国の議会政治の説明に接したので、彼が後年日本における議会政治の最も急進的な指導者になる最初の源流は、繰り返して言えば初等オランダ歴史書の習得にある。

 なおここで特に付記しておかねばならぬことがある。大隈は蘭学を始めると、弘道館系の漢学を正規の学問として習得することとは、きっぱり絶縁したが、枝吉神陽の門へは出入りした。義祭同盟も同志の間に一時の熱が冷め、神陽の門前も、雀羅を張ってさびれかけている時だったので、彼は大いに大隈の来訪を喜び、好遇歓待した。大隈は述べている。

南北騒動で我輩が弘道館を退学された時に、枝吉神陽の処へ往つた。令や書紀や、古事記を学んだ。其頃に本居宣長の古事記伝などをも一通り眼を通したんである。また蘭学には精通しなかつたから、十分に西洋理屈を説くに至らず、そこで漢学に対抗する必要上国学を学ぶ志を起したのである。すると神陽先生大きに喜んで親切に教へて呉れた。御蔭で我輩は古典の知識を振舞はして、大に儒教を排斥し、「漢学は孔子の垂れ糞だ。其様なものを読んで如何するか」といつてやつたんだ。

(『早稲田清話』 四五三頁)

これでみると、国学を修得するのが第一目的でなく、ただ朱子学は中国三千年の歴史に最も整備した一大哲学組織を作り上げており、弘道館の連中はそれを根拠に議論してくるから、その論争の対抗上、いわば方便として教えを受けた国学だったが、若い魂にはそれでも有益な教養となった。大隈の蘭学に、漢学は反発し、国学は融和したのである。